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「今回の判決(平成25年9月4日、最高裁大法廷における非嫡出子差別の違憲判決)は、たとえ非嫡であっても生まれた子供に罪はないなどという俗論にくみして、国民感情に反するものだ、このように考えております。」by土屋正忠

2014.08.16.Sat.10:47
平成25年11月15日 衆議院 法務委員会、土屋正忠議員の質疑に関する国会議事録

○江崎委員長 これより質疑に入ります。
 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。初めに、土屋正忠君。

○土屋(正)委員 きょうは、内閣提出の民法改正の法案でございますが、この法案のもととなるべきは、平成二十五年九月四日、最高裁大法廷における違憲判決がもとになっているわけでありますので、この法案そのものは、たった一条の、至って簡潔なものでございますが、この背景にある最高裁判決についての評価をしながら質問をいたしたいと思います。
 とはいえ、大臣のお立場は、法務行政の責任者としてのお立場でありますから、最高裁の大法廷が下した判決について、恐らく御発言をするのはなかなか難しいお立場だと思いますので、どうしても、質問は長く、お答えは短くなるのかなと思っている次第でございます。いや、どしどしお答えいただけるのならどしどし質問をするんですが、そこで、しばらく私がしゃべるのが長くなるのをお許しいただきたいと思います。
 まず最初に、民事局長に質問をさせていただきます。
 今回の判決の中に、いわゆる嫡出子と非嫡出子の区別がなされているわけでございますが、非嫡出子は、事実婚の子供と、それから法律婚をなした人物が、男性が他の女性との関係においてなした、いわゆる世の中的に言うと不倫の子、裁判の用語的に言うと不貞の子、こういう二つの分類があって、その両方を指していると理解していいのかどうか、法律上の見解をお尋ねいたしたいと存じます。

○深山政府参考人 今の委員の御指摘のとおり、どちらも嫡出でない子に当たります。

○土屋(正)委員 よく考えてみますと、いわゆる信念を持って法律上の届け出をしない事実婚といわゆる不貞の子という二種類に分かれるわけでありますが、事実婚だけで、ずっと、婚姻届は出していないけれども、お互いに誠実に、一夫一婦制を守って生涯を終える、こういう人には今回の判決は全く意味がないわけですよね、それ以外に子供がいないわけですから。だから、今回の判決並びに民法改正によって、いわゆる具体的な利益を受けるのは、不貞の子供、こういうことが利益を受けるということになるんだろうと思います。
 実は、このことが国民にさまざまな影響を与え、これから議論が進めば進むほど、国民の間にさまざまな議論が出てくるんだろうと思います。
 谷垣法務大臣に対する質問でございますが、九月の四日の判決以来、町でこの種の話題がよく出ます。そして、女性の皆さん方に、もちろん統計をとったわけじゃなし、メモをとったわけではないですが、押しなべて一般の国民に聞いてみますと、こういう感想があります、典型的な感想は。
 これは法律婚の女性ですが、私が頑張ってきたのは一体何だったのよという意見が圧倒的であります。とりわけ、商店や小企業の人々は、財産形成に自分も重大な寄与をしてきた。にもかかわらず、突然、夫の死後に不貞の子供に請求されるのは理不尽である、こういう思いが非常に強いわけであります。ちなみに、どういう階層かというと、四十代、五十代、六十代、七十代、こういう世代の人々の抵抗感は物すごく強く、二十代、三十代の比較的若い層には強い拒否反応は比較的少ないという印象であります。これは一体どういうことなのかというと、婚姻の有無や人生経験の差が見解の違いになっているんだろうと思うわけであります。
 これが平均的な国民感情であると思いますが、こういう国民感情について、谷垣法務大臣はいかがお考えでございましょうか。

○谷垣国務大臣 この問題で国民感情がさまざまであるということは、私もよく承知しております。
 土屋先生も当然いろいろな御意見を耳にしておられると思いますし、また、その御意見の背景にあるそれぞれの人生、家庭生活、親子関係、これもまた多様なものがあるんだと思います。今お話を伺って、率直に申し上げますと、そういうことでございます。

○土屋(正)委員 それでは、最高裁判決について、私の考え方を述べ、最後に何か谷垣大臣から御感想があればお聞きをいたしたいと思います。
 私たち自民党は、家族は、愛情と信頼で結ばれた、国民生活の基盤を形成する最小の単位であり、これを法律で保障し、支援することは健全な国家を形成するための最優先事項だ、このように考えてきたわけであります。
 しかし、今回の最高裁大法廷判決は、相続において、嫡出でない子供も嫡出と同様の権利を与えるという内容で、法律婚の否定、家族の軽視につながると考えるわけであります。
 なぜならば、相続割合を嫡出一とし嫡出でない子を二分の一とするのは、相続財産の割合が多くなるという財産上の理由だけではなく、法律婚で夫婦が暮らし、時には仕事をし、財産を形成し、家族を養い、ともに歩んできたという、その人生そのものに対する誇りでもあるからであります。これが否定されたようなことになるわけであります。
 したがって、嫡出子と嫡出でない子供を同等視するのは、結婚して夫婦力を合わせて長い人生をともに歩んできたという自負心と誇りを毀損することになるのだ、このように思います。

 今回の判決は、たとえ非嫡であっても生まれた子供に罪はないなどという俗論にくみして、国民感情に反するものだ、このように考えております。
 判決文第十一ページには、「子にとっては自ら選択ないし修正する余地のない事柄を理由としてその子に不利益を及ぼすことは許されず、子を個人として尊重し、その権利を保障すべきである」と判示をしております。しかし、この見解は、個人としての権利を尊重する余り、重大な視点が欠落をしていると私は思います。
 まず第一は、人間は、個人として孤立して生きるのではなく、親子、兄弟、姉妹を身近な最小の家族として、さまざまな人間関係によって生き、生活をしているのだと思います。
 二点目は、非嫡出子の権利を強調する余り、そのことによって傷つき、落胆し、無念に思う法律婚の妻や嫡出子に対する思いが欠落をしていると言わざるを得ません。
 今回の判決によって、法律婚によって保護されるべき家族の利益は物心ともに失われるのではないかと危惧をするわけであります。
 それに対して、平成七年七月五日の大法廷判決は、次のように述べているわけであります。三のところで、
  憲法二四条一項は、婚姻は両性の合意のみに基づいて成立する旨を定めるところ、民法七三九条一項は、「婚姻は、戸籍法の定めるところによりこれを届け出ることによつて、その効力を生ずる。」と規定し、いわゆる事実婚主義を排して法律婚主義を採用し、また、同法七三二条は、重婚を禁止し、いわゆる一夫一婦制を採用することを明らかにしているが、民法が採用するこれらの制度は憲法の右規定に反するものでないことはいうまでもない。
  そして、このように民法が法律婚主義を採用した結果として、婚姻関係から出生した嫡出子と婚姻外の関係から出生した非嫡出子との区別が生じ、親子関係の成立などにつき異なった規律がされ、また、内縁の配偶者には他方の配偶者の相続が認められないなどの差異が生じても、それはやむを得ないところといわなければならない。
  本件規定の立法理由は、法律上の配偶者との間に出生した嫡出子の立場を尊重するとともに、
ここですね、
 他方、被相続人の子である非嫡出子の立場にも配慮して、非嫡出子に嫡出子の二分の一の法定相続分を認めることにより、非嫡出子を保護しようとしたものであり、法律婚の尊重と非嫡出子の保護の調整を図ったもの
であると。実にいい判決ですね。実に情理にかなった判決だ、このように思っているわけであります。
 そもそも、今回の判決が問題なのは、論旨が一貫していないことであります。判決文二ページにおいて、次のように述べているわけであります。これは今回の判決です。
  相続制度は、被相続人の財産を誰に、どのように承継させるかを定めるものであるが、相続制度を定めるに当たっては、それぞれの国の伝統、社会事情、国民感情なども考慮されなければならない。さらに、現在の相続制度は、家族というものをどのように考えるかということと密接に関係しているのであって、その国における婚姻ないし親子関係に対する規律、国民の意識等を離れてこれを定めることはできない。これらを総合的に考慮した上で、相続制度をどのように定めるかは、立法府の合理的な裁量判断に委ねられているものというべきである。
と、実に立派な前提を置いているわけであります。まことにごもっともであります。
 ところが、判決文四ページあたりから、だんだん論旨が違ってくるわけであります。
 前記2で説示した事柄を総合的に考慮して決せられるべきものであり、また、これらの事柄は時代と共に変遷する
こういう、時代とともに変遷するという抽象的なことが出てきているわけであります。
 続いて、ドイツやフランスの例や、児童の権利条約、法務省の婚姻制度等に関する民法改正要綱試案、離婚件数の増大、嫡出でない子の増加などを挙げているわけであります。
 さらに、外国では婚外子が五〇%、我が国では二・二%にすぎないと、明らかな国情の違いを具体的に示した上で、八ページで以下のように述べているわけであります。
  しかし、嫡出でない子の法定相続分を嫡出子のそれの二分の一とする本件規定の合理性は、前記2及び(2)で説示したとおり、種々の要素を総合考慮し、個人の尊厳と法の下の平等を定める憲法に照らし、嫡出でない子の権利が不当に侵害されているか否かという観点から判断されるべき法的問題であり、
こう言っているんですね。
 しかし、となると、不当に侵害してきたなら、今までの判例は不当に侵害してきたのか、こういうことにもなるわけであります。国情や国民感情によって決定されるとした原則に対して、真反対な結論を出しているわけであります。結局、結論は、十ページの下段(4)の五つの抽象的な理由によって、それまで合憲としてきた結論を真反対に覆したわけであります。
 この部分をさらに読んでみますと、「(4) 本件規定の合理性に関連する以上のような種々の事柄の変遷等は、その中のいずれか一つを捉えて、本件規定による法定相続分の区別を不合理とすべき決定的な理由とし得るものではない。しかし、昭和二十二年民法改正時から現在に至るまでの間の社会の動向」、これが一ですね、理由は。「我が国における家族形態の多様化」が二番目、「これに伴う国民の意識の変化」「諸外国の立法」、そして五番目が「我が国が批准した条約」、こういう五つの例を挙げているわけであります。
 しかし、これらはいずれも抽象的なものであり、個別の論証をしたいと思いますが、同時にまた、変化の具体的な事例として挙げた、住民票の続柄を長男、長女から単に子とすることを求めて起こした裁判の例を挙げているわけであります。
 しかし、これは明らかに引用を間違っているし、この訴訟の本質、つまり、住民票の続柄表記に関する訴訟の本質の実態について理解していないと私は言わざるを得ないわけであります。
 この訴訟は、誰に対して起こされたかというと、武蔵野市長に対して起こされたわけであります。住民票の続柄訂正を求めたものであり、特殊な目的を持った、法律婚解体を目指した運動であります。被告は、武蔵野市長たる私でありましたが、原告は、驚くべきことに、夫婦とも市の職員。独自の主張を展開し、労働組合活動を頑張ってきた職員でありますが、同時に、労働組合の中でも孤立した活動家でありました。ちなみに申し上げますが、この夫婦は私が採用したものではありません。
 その夫婦が武蔵野市長たる私を訴えたもので、そのきっかけは、住民票発行事務の窓口職員であったときに、この職員だったんですね、この女性が、住民票で、窓口で。ところが、他区の居住者が同様な趣旨の申し立てをして、その苦情を受け付けた職員だったんです。この案件は異議申し立ての段階で終わり、訴訟には発展しなかったんですけれども、このことに学んだこの職員は、これはいけると思って、自分のことで武蔵野市長の土屋を訴えたわけであります。
 当時は、住民票に本籍地を記載すべきかどうか、また、それを閲覧させるべきかなど、住民票の公開原則とプライバシーの議論があって、訴訟中に当時の自治省が見解を出し、続柄欄を、長男、長女など身分をあらわす表記から単なる子と変更したものであります。これは私が訴えられたわけでありますが、国も大いに関係するということで、法務省の検事さんが、共同の、追加の、訴訟に参加したわけであります。
 私は、続柄を書いても一向に構わないと考えておりますけれども、仮に百歩譲っても、この一連の事件の本質は、住民票が居住関係を公証する制度であることに鑑みて、戸籍簿のように身分を公証する制度とは違うわけですから、居住関係を公証する制度の中にわざわざ続柄を書く必要があるかどうか、こういう議論になるわけであります。
 住民票は、住民基本台帳法に基づく地方自治体の基本図書であり、自治事務であります。選挙権を初めとするさまざまな社会的権利を行使するための基本台帳であり、身分を公証する戸籍とは明らかに性格が異なるわけであります。
 したがって、住民票の続柄欄をめぐる裁判の本質は、居住関係の公証制度である住民基本台帳に身分を公証する続柄を記載する必要があるのかどうか、プライバシーはどうか、これは住民票は公開制になっておりますから、こういうことが問われた裁判であって。また、住民票をめぐる裁判は、それまで国民の大多数が異存なく受けとめていた制度を、一握りの運動家が一定の価値観に基づいて、あえて訴訟を起こしたものであり、運動家のための運動であるというのが実態であります……

○江崎委員長 御静粛に。

○土屋(正)委員 あなた以上に私がよく知っている。
 この例を、法律婚主義をとる我が国の婚姻制度の変更の理由に挙げるなど、引用違いも甚だしく、かつ、訴訟の実態を十分承知していない観念論であると言っても過言ではないと私は思っております。
 また、判決が違憲とした理由のうち、嫡出でない子供がふえている、また、欧米の立法例を挙げたことについても意見を述べたいと思います。
 日本において、嫡出でない子がふえているといっても、わずか二・二%であり、過去十年間の統計をとってみても、全部二万人台を推移しているわけであります。これは法務省から出された資料であります。したがって、欧米の五〇%と明らかに異なるわけでありまして、何をもって嫡出でない子がふえているというのでしょうか。この欧米との違いは二十二倍で、決定的な差があるわけでありますから、この差異は、背景にある国民意識の差と考えるべきではないでしょうか。
 事実、判決文八ページの中段においても、「婚姻届を提出するかどうかの判断が第一子の妊娠と深く結び付いているとみられるなど、全体として嫡出でない子とすることを避けようとする傾向があること、」「法律婚を尊重する意識は幅広く浸透しているとみられる」と、この判決文の中でも説示をしているところであります。
 結論からすれば、日本では嫡出でない子はふえていない。また、今回の最高裁判決文二ページに記述されているように、「相続制度を定めるに当たっては、それぞれの国の伝統、社会事情、国民感情なども考慮されなければならない。」のだから、嫡出でない子が五〇%の欧米と比較をして、事実と国民感情に立脚すれば、欧米に倣って改正の必要は全くなく、改正の必然性に欠けると言わざるを得ないと私は思っております。
 ここでは、なぜ欧米は嫡出でない子、事実婚が多いのだろうかと考察をしてみますと、背景にはキリスト教に対する宗教観があると思います。
 キリスト教においては、男女の婚姻は当事者の合意ではなく、神の恩寵、秘跡、サクラメントとされているわけであります。誕生から始まり、死亡時の終油に至る人生のさまざまな過程には、神からの選ばれた恩寵があり、七大の秘跡があるというのがローマンカソリックの基本的なテーマであります。
 近代国家以前の中世までは、婚姻は教会で誓い、婚姻届は教会が婚姻簿に記載していたわけであります。私は、二十数年前にフランスの地方自治体を視察したとき、教会婚と法律婚が併存していて、教会婚には離婚が認められていないので、最近は法律婚に人気が移ってきている、このようなことを聞いたわけであります。まさに宗教的な背景があると言わざるを得ないわけであります。
 天動説に異を唱えたガリレオ・ガリレイのそれでも地球は回っているという言葉は、神への挑戦であり、宗教裁判において異端審問官からはりつけの刑に処せられるという危険を冒したものなのであります。
 ルネサンス運動は、まさに神が支配する世界から人間中心の世界へと変換する命がけの運動でもあったわけであります。
 十九世紀の世紀末に、ニーチェが神は死んだとか、エゴン・シーレやクリムトの人間賛歌の美術運動は、神からいかに自由になるかが近世ヨーロッパのテーマであった、このように考えます。そして、その象徴が、サルトルとボーボワールのいわゆる事実婚だ、このように考えております。
 ヨーロッパの嫡出子の比率の五〇%は、神からの自由という重要なテーマが存在し、単なる不貞の話ではない、こういうふうに理解しなければ、なぜ五〇%もの人がそのような状態にいるのかわからないわけであります。
 しかし、神から自由になった現代は、何をきずなとして生きるのか。イギリス人の作家、サマセット・モームの大作の「人間の絆」は、そのような問題意識で創作されたものと理解し、この「オブ・ヒューマン・ボンデージ」という小説の中には、家族のきずなということが極めて重大なファクターとなっているわけであります。
 では、日本の場合はどうなのか。これは、やはり日本の文化や国民意識を形成していく裏づけは神道と仏教でありますから、これらの二つのいわゆる文化の根底には、神から選ばれて、神の命令に従って生きるという発想はないわけであります。何といったって、神道はやおよろずの神で、八百万も神様がいるわけでありますから。
 このような中にあって、それでは中世、江戸時代はどうであったのかということになりますと、しかし、寺社が重要な役割を果たしてまいりました。いわゆる過去帳だとか人別帳だとかというものがそれに当たるわけであります。歴史人口学という学問の中で鬼頭宏先生などが明らかにした内容でありますけれども、このような中にあって国民意識が形成されてきた、共同体を優先するという意識が醸成されてきた、このように考えているわけであります。
 このような国民感情に立って今回の最高裁の判決を見てみると、婚姻制度は、それぞれの国において、歴史、文化、宗教観などを背景にした国民感情に立脚した制度でありますが、今回の判決は、他国の比較や国際条約など、観念論によって結論を導き出し、また、事実の指定の、いわゆる婚外子の増加ということも事実とも違うわけであります。また、判決文が一番最初に示した論旨とも首尾一貫をしていないわけであります。
 婚姻と結びついた相続を日本社会の根っこにある国民感情に依拠して判断するのではなく、他国との比較や国際条約など、それもキリスト教国中心の価値観で判断したところに違和感が生ずるわけであります。
 この最高裁判決は、国民私人間の法律関係、とりわけ親族関係に言及した初の違憲判決でありますが、本来、このような作用は、国民から選ばれた国権の最高機関である国会の立法作用によって方向を見出すべきではないでしょうか。いささか、最高裁の、司法の能動が過ぎているような気がいたすわけであります。
 とはいえ、法解釈の最終審である最高裁の判断は重い。今の日本国の民主制の三権分立の立場からすると、残念ながら、この判断は重いと言わざるを得ないわけであります。
 そこで、権威の象徴である石の塔に立てこもる、象牙の塔とよく言いますが、あれは石でありますから、最高裁は、石の塔に立てこもる最高裁の判事の皆さんは、草の根の国民のバランス感覚や素朴な正義感などを深く省察して判決を出すことを今後期待いたしたいと思います。このことは、最高裁判事の国民審査の方法にも影響を与えることだろう、私はこんなふうに思っております。
 この判決をきっかけに、民法改正に当たって、私たち立法府にある者は、国民感情に根差し、おくれず、さりとて先走らず、国民とともに、国民の幸せと日本国の繁栄を果たすことを図り……

○江崎委員長 傍聴人は私語を慎んでください。

○土屋(正)委員 引き続き、関連の法制の整備に当たりたい、このように考えておりますが、大臣、何か感想がありましたら、どうぞよろしくお願いします。

○谷垣国務大臣 土屋委員から、カトリックの教義からサルトル、ボーボワールに至るまで、また、儒教、神道も引いて、博引旁証の御議論でございました。それに対して余り事務的な答弁を申し上げるのは恥ずかしゅうございますが、最後におっしゃったように、やはり、通常、司法は立法府のつくった法律に従って裁判をする、しかし、その法律が憲法に適合するかどうかは、最高裁判所が判断権を持っているというのが日本国憲法の構造でございます。
 したがいまして、法務大臣としては、その判決を尊重して、それに対応する姿勢を整えていくというのが私の責務であろう、このように考えております。

○土屋(正)委員 以上をもって終わります。どうもありがとうございました。
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